2013年02月11日
2度目の冬。
初めて陸前高田を訪れてから、1年が過ぎた。

高田高校(2012年1月)
一体どんな力が加わったら、こんな風に壊れるんだろう?。。。とか
戦争映画みたいだな。。。とか
状況がしばし受け入れられなかった。
けど、少しずつ分かって来て「現実だ」と思えた瞬間の
あの時の気持ちは、今考えてもなんて表現して良いかわからない。
恐怖はもちろん、誰に向けたら良いかわからない怒りとか
現場を見てもなお、私の想像力が決して現実に追いつく事がないという苛立。。。
悔しさ。。。そんなモンが入り乱れてたんだと思う。

高田市役所と市民会館(2012年5月)
今、あのとき見たほとんどの建物が取り壊されている。
それは確かな復興の第一歩。
でも、そこで犠牲になったであろう人達を思う遺族たちの中には
(ろくな検証もされずに)ただただ更地化されてしまう、と
怒りや寂しさや悔しさを持って見つめている人たちもいる。
そんな切ない思いに応える方法は、一つしかないと思う。
二度と繰り返さない事。
三陸地方の津波の記録は、
主なものだけでも貞観11年(869年)から18件あるという。
明治三陸大津波(明治29年:1896年/最大遡上高38.2m)死者27122人。
昭和三陸地震(昭和8年:1933年/最大遡上高28.7m)では死者3000人以上。
この辺りは言わば“津波銀座”だ。
当然、津波に対する知識も備えも、他の地域の人よりよっぽどある。
でも、調べてみると、その備えの多くはチリ地震津波の時の経験によるもの。
チリ地震津波:昭和35年(1960年)。最大遡上高は6.1m、死者142人。
なぜ、それより少し前の昭和三陸地震が基準にならなかったのか。
なぜ、たかだか100年程度前の明治の津波が基準にならなかったのか。
なぜ、明治や昭和の津波に比べて規模の小さなチリ地震が基準になったのか。
とても疑問に思う。
そして、前回書いた話。
市役所界隈で多くの犠牲者が出たのに、
そのすぐ近くのスーパーでは客も従業員も犠牲者は一人も出なかった。
なぜなのか?
私にはとても、その理由の全てが市長の話に集約されるとは思えない。
奇しくも昨日、宮城県の大川小学校で多くの犠牲を出してしまった惨事について
市教育委員会幹部の処分を検討するとの報道があった。
参照記事
行政の責任もキチンと検証して、これからの世代に生かして行く事が
亡くならずに済んだかもしれない人達へのせめてもの報いであり
供養なんじゃないかと思う。
まだまだ復興は遠い。

大槌方面(2012年5月)
被災地以外の地域での関心の温度差はもちろん
被災地間の温度差も広がって来るんだと思う。
特に、アクセスの悪い北部の町は、
これからどうやって関心を集めるのかが肝になってくるんだろうな、と
アクセスの良い福島県いわき市なんかを見て感じた。

枯死して伐採、現在剥製処理が行われている陸前高田のシンボル奇跡の一本松。
今月再び姿を現すようだけど、どこまで注目を集められるか。
地元の人や、そこに住み着いてサポートしてる人達にしか出来ない事が
ますます増えて行くんだろう。
いつも書いてる通り、私達がまんべんなく出来る支援は
そんな被災地の事を忘れずに居る事だと思ってる。
けど、それは同情なんかじゃなくて
「いつか私達の身にも起こるかもしれない。」
と、自分に引き寄せて考え、備える事の大切さを忘れない事でもある。


在りし日の陸前高田駅前商店街(左: 高田で屋外展示してあった。)と同じ場所2012年8月(右)
多くの犠牲によって学んだもの、
なに一つ、無駄にしちゃいけない。

それでも私達はこの海と共に生きるんだから。
あの日から、2年が過ぎようとしている。
あの日から、2度目の2月の月命日によせて。

高田高校(2012年1月)
一体どんな力が加わったら、こんな風に壊れるんだろう?。。。とか
戦争映画みたいだな。。。とか
状況がしばし受け入れられなかった。
けど、少しずつ分かって来て「現実だ」と思えた瞬間の
あの時の気持ちは、今考えてもなんて表現して良いかわからない。
恐怖はもちろん、誰に向けたら良いかわからない怒りとか
現場を見てもなお、私の想像力が決して現実に追いつく事がないという苛立。。。
悔しさ。。。そんなモンが入り乱れてたんだと思う。

高田市役所と市民会館(2012年5月)
今、あのとき見たほとんどの建物が取り壊されている。
それは確かな復興の第一歩。
でも、そこで犠牲になったであろう人達を思う遺族たちの中には
(ろくな検証もされずに)ただただ更地化されてしまう、と
怒りや寂しさや悔しさを持って見つめている人たちもいる。
そんな切ない思いに応える方法は、一つしかないと思う。
二度と繰り返さない事。
三陸地方の津波の記録は、
主なものだけでも貞観11年(869年)から18件あるという。
明治三陸大津波(明治29年:1896年/最大遡上高38.2m)死者27122人。
昭和三陸地震(昭和8年:1933年/最大遡上高28.7m)では死者3000人以上。
この辺りは言わば“津波銀座”だ。
当然、津波に対する知識も備えも、他の地域の人よりよっぽどある。
でも、調べてみると、その備えの多くはチリ地震津波の時の経験によるもの。
チリ地震津波:昭和35年(1960年)。最大遡上高は6.1m、死者142人。
なぜ、それより少し前の昭和三陸地震が基準にならなかったのか。
なぜ、たかだか100年程度前の明治の津波が基準にならなかったのか。
なぜ、明治や昭和の津波に比べて規模の小さなチリ地震が基準になったのか。
とても疑問に思う。
そして、前回書いた話。
市役所界隈で多くの犠牲者が出たのに、
そのすぐ近くのスーパーでは客も従業員も犠牲者は一人も出なかった。
なぜなのか?
私にはとても、その理由の全てが市長の話に集約されるとは思えない。
奇しくも昨日、宮城県の大川小学校で多くの犠牲を出してしまった惨事について
市教育委員会幹部の処分を検討するとの報道があった。
参照記事
行政の責任もキチンと検証して、これからの世代に生かして行く事が
亡くならずに済んだかもしれない人達へのせめてもの報いであり
供養なんじゃないかと思う。
まだまだ復興は遠い。

大槌方面(2012年5月)
被災地以外の地域での関心の温度差はもちろん
被災地間の温度差も広がって来るんだと思う。
特に、アクセスの悪い北部の町は、
これからどうやって関心を集めるのかが肝になってくるんだろうな、と
アクセスの良い福島県いわき市なんかを見て感じた。

枯死して伐採、現在剥製処理が行われている陸前高田のシンボル奇跡の一本松。
今月再び姿を現すようだけど、どこまで注目を集められるか。
地元の人や、そこに住み着いてサポートしてる人達にしか出来ない事が
ますます増えて行くんだろう。
いつも書いてる通り、私達がまんべんなく出来る支援は
そんな被災地の事を忘れずに居る事だと思ってる。
けど、それは同情なんかじゃなくて
「いつか私達の身にも起こるかもしれない。」
と、自分に引き寄せて考え、備える事の大切さを忘れない事でもある。


在りし日の陸前高田駅前商店街(左: 高田で屋外展示してあった。)と同じ場所2012年8月(右)
多くの犠牲によって学んだもの、
なに一つ、無駄にしちゃいけない。

それでも私達はこの海と共に生きるんだから。
あの日から、2年が過ぎようとしている。
あの日から、2度目の2月の月命日によせて。
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