東日本大震
2012年11月12日
すれ違う心。
先月の記事「福島に行って来た。」
本当に、本当に沢山の方に読んで頂けました。
まずは、この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
福島へ行ってから、実際に記事にするまで、随分時間が経っていました。
何を伝えようか、どう書こうか、
大勢が気になっているであろう、放射能の事はどう扱おうか。。。
何回も構想を考えて、練り直しました。
けど、結局出て来た物は、そんな練った物ではなく
見て来た物を、見て来たままに、感じた様に、
出来るだけ修飾のないように書いたものでした。
私はジャーナリストでも何でもないし、この難しい場面において
“伝えよう”なんておこがましい事は考えたらいけない。
そのままを書く事が一番誠実に向き合う事なんじゃないかと思いました。
だから、それが伝わらなくても、それならそれで、かまわない、と。
結果は、思いもよらない程の反応を頂きました。
Twitterでも沢山の方に拡散して頂きました。
多くは、福島在住の方や由来のある方でした。
これも、とても意外でした。
今まで何度となく、被災地の記事は書いて来ました。
けど、これほどまでに現地の方からの反応があったのは初めてです。
福島に住み続けている方
帰りたくても帰れずにいる方
かつて福島に住んでいた方
「これが福島の現状」
「外部からの声が大切」
「マスコミからは伝えられていない事」
「良く見てくれて嬉しい」
等々。。。
一方、福島以外の方からは
「福島が大きい(一括りに出来ない)と分かった」
と言う様な意見が多かった様に思います。
とても単純な理解だけど、今の福島にとってはとても意味のある事だと思ってます。
なんだか、図々しいかもしれないけど、
初めて少し何か出来た気になれました。
と、同時に
「福島は外部からの声をこんなに欲してるのか?」
という驚きもありました。
今日は、震災から1年8ヶ月目の月命日です。
遅々として進まない復興に、時間だけは
もうそんなに経ってしまったのか、と、多くの人が思っている筈。
国としての復興はもちろん
国と自治体との関係
自治体と住民との関係
地元の方と外部から関わる人達の関係
外部から関わる人と別の外部から関わる人達
色んな気持ちと意見と方法がある中
色んな事がもつれて、すれ違って
癒すべき傷も癒えていないのに、
無用な傷が増えているのではないかと思える場面も多々。。。
支援に関わる人達の中には、長く関わって行くうちに
ある意味「達観」したかの様な意見の方も目にする様になりました。
例えば、現地を訪れる事に関し
「被災地はもうそれを望んでいない」
「そんな風に人が訪れない事が“日常”であり、それを望んでいる」
「被災地に行くと親身になり過ぎる」
確かにそう言う側面もあるかもしれない。
けど、現地に行かないと見えない事は多いです。
もちろん、「全員が行くべき!」とかは思わないけど。。。
でも「行ってみようかな。。。」と思う人達のハードルを上げるのも正解とは思えない。
見に行く前から色んな物を背負わなければならないなら
“行こう”と思う人は必然的に減ってしまい
多くの人は、現地を知る一部の人の情報や、想像で物を言う人の情報を
「現状」と理解してしまう。
「情報」だけが一人歩きして、「現実」から遠のいてしまいそう。
「寄り添う」ってなんだろう?って考える。
自分が経験した事のない様な、恐ろしく悲しく苦しい体験をした方の気持ちは
私には分かり得る筈がない。
どんなに考え、想像しても
彼らの傷が癒える様な、彼らが喜び望む様な言葉を探し出せる自信はない。
私に出来る事は「真実を知ろうとする事」「わかりたいと思う事」。
それが「寄り添う」事なんじゃないかって思う。
人が人と関わり合えば、一番傷つけたくない人を、一番傷つけてしまう事もある。
けど、それで萎縮してしまえば、バラバラですれ違ったまま。
もちろん、同じ間違いを何度も繰り返して良い訳はないけど
応援したい方も、助けが必要な方も、間違う事はある。
身勝手な正義感を正当化するつもりは、毛頭ないけれど。。。
まだまだ先の長い復興の道のり。
きっと色んな場面で「わかった気」になる事があると思う。
でも「わかってないかもしれない」と、深化して考える事で
もう少し近くに「寄り添いたい」。
私が被災地を訪れる理由は「わかりたい」からです。
日本に帰ったら、またどこかへ行きたいです。
本当に、本当に沢山の方に読んで頂けました。
まずは、この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
福島へ行ってから、実際に記事にするまで、随分時間が経っていました。
何を伝えようか、どう書こうか、
大勢が気になっているであろう、放射能の事はどう扱おうか。。。
何回も構想を考えて、練り直しました。
けど、結局出て来た物は、そんな練った物ではなく
見て来た物を、見て来たままに、感じた様に、
出来るだけ修飾のないように書いたものでした。
私はジャーナリストでも何でもないし、この難しい場面において
“伝えよう”なんておこがましい事は考えたらいけない。
そのままを書く事が一番誠実に向き合う事なんじゃないかと思いました。
だから、それが伝わらなくても、それならそれで、かまわない、と。
結果は、思いもよらない程の反応を頂きました。
Twitterでも沢山の方に拡散して頂きました。
多くは、福島在住の方や由来のある方でした。
これも、とても意外でした。
今まで何度となく、被災地の記事は書いて来ました。
けど、これほどまでに現地の方からの反応があったのは初めてです。
福島に住み続けている方
帰りたくても帰れずにいる方
かつて福島に住んでいた方
「これが福島の現状」
「外部からの声が大切」
「マスコミからは伝えられていない事」
「良く見てくれて嬉しい」
等々。。。
一方、福島以外の方からは
「福島が大きい(一括りに出来ない)と分かった」
と言う様な意見が多かった様に思います。
とても単純な理解だけど、今の福島にとってはとても意味のある事だと思ってます。
なんだか、図々しいかもしれないけど、
初めて少し何か出来た気になれました。
と、同時に
「福島は外部からの声をこんなに欲してるのか?」
という驚きもありました。
今日は、震災から1年8ヶ月目の月命日です。
遅々として進まない復興に、時間だけは
もうそんなに経ってしまったのか、と、多くの人が思っている筈。
国としての復興はもちろん
国と自治体との関係
自治体と住民との関係
地元の方と外部から関わる人達の関係
外部から関わる人と別の外部から関わる人達
色んな気持ちと意見と方法がある中
色んな事がもつれて、すれ違って
癒すべき傷も癒えていないのに、
無用な傷が増えているのではないかと思える場面も多々。。。
支援に関わる人達の中には、長く関わって行くうちに
ある意味「達観」したかの様な意見の方も目にする様になりました。
例えば、現地を訪れる事に関し
「被災地はもうそれを望んでいない」
「そんな風に人が訪れない事が“日常”であり、それを望んでいる」
「被災地に行くと親身になり過ぎる」
確かにそう言う側面もあるかもしれない。
けど、現地に行かないと見えない事は多いです。
もちろん、「全員が行くべき!」とかは思わないけど。。。
でも「行ってみようかな。。。」と思う人達のハードルを上げるのも正解とは思えない。
見に行く前から色んな物を背負わなければならないなら
“行こう”と思う人は必然的に減ってしまい
多くの人は、現地を知る一部の人の情報や、想像で物を言う人の情報を
「現状」と理解してしまう。
「情報」だけが一人歩きして、「現実」から遠のいてしまいそう。
「寄り添う」ってなんだろう?って考える。
自分が経験した事のない様な、恐ろしく悲しく苦しい体験をした方の気持ちは
私には分かり得る筈がない。
どんなに考え、想像しても
彼らの傷が癒える様な、彼らが喜び望む様な言葉を探し出せる自信はない。
私に出来る事は「真実を知ろうとする事」「わかりたいと思う事」。
それが「寄り添う」事なんじゃないかって思う。
人が人と関わり合えば、一番傷つけたくない人を、一番傷つけてしまう事もある。
けど、それで萎縮してしまえば、バラバラですれ違ったまま。
もちろん、同じ間違いを何度も繰り返して良い訳はないけど
応援したい方も、助けが必要な方も、間違う事はある。
身勝手な正義感を正当化するつもりは、毛頭ないけれど。。。
まだまだ先の長い復興の道のり。
きっと色んな場面で「わかった気」になる事があると思う。
でも「わかってないかもしれない」と、深化して考える事で
もう少し近くに「寄り添いたい」。
私が被災地を訪れる理由は「わかりたい」からです。
日本に帰ったら、またどこかへ行きたいです。
2012年09月03日
8月の高田(3)
地元で活動しているジャーナリストの方からこんな話を聞いた。
「被災した建物を本当に全部取り壊していいのか?」
陸前高田市長の戸羽さんは「見たくない」という遺族の方々の気持ちを鑑みて
全建物の解体を決定している。
戸羽さんも、奥様を津波で亡くされてる。
もしかしたら、戸羽さんご自身が「見たくない」という気持ちも強いのかもしれない。
前回の訪問時に知り合いになった仮設住宅にお住まいで娘さんを亡くされたTさんも
「見たくない」と目を潤ませた。
もちろん、そういう気持ちは尊重されるべきだよね。
私は、というと
被災建物を取り壊して、文字通り何も無くなった陸前高田の町を想像して
少し疑問を持ちながらも“仕方ないのかな。。。”と思っていた。
何となく、モヤモヤしてて、でも、その事はあまり深く考えない様にしていた。
自分では結論なんて出そうにないから。
「ろくな議論も行われずに解体が決まってしまったのが問題」とも言っていた。
確かに。。。ご遺族の方々の中にも
残して欲しい、と思っている方が皆無とは言い切れないよね。
対立する意見があるのは、ごく普通の事。
残すか残さないか、感情的な部分だけで考えたら
たぶん「残さない」という結論になって自然なんだと思う。
誤解を恐れずに言えば、
多くのご遺族の方達は“被災した建物を残す事の意味”を考えられる程
心に余裕のある状態になっていないんじゃないか、とも思う。
つまり
被災建物を残す事で、後生に津波の恐ろしさを視覚的に伝える意義
ある種の“観光”として、被災建物がこの地に人を呼び込む可能性。。。
それは、陸前高田の使命と復興を両立させるものかもしれない。
例えば、今、広島に原爆ドームがなければ
広島を訪れる事の意味は、どれだけ削られてしまうだろう。。。と考える。
先日の記事でも書いた通り、陸前高田の復興のシンボル
「奇跡の一本松」が1億5000万円を掛けて、
その姿をとどめようとしている。
確かに今の一本松は、
ある程度の人を陸前高田に呼び込んでいる。
けど、その人達が見に来ているのは、今の一本松。
津波に堪えて、踏ん張って残った、ど根性の松。
その松の実際は、陸前高田を全国に紹介するのに多いに役立ち
一本松を通してマスコミに取り上げてもらったり、商品の販売促進等に利用する事で
陸前高田に視線を集める大役をこなし、
そしてその成果は、被災地の名前を挙げようとした時、
多くの人が「陸前高田」を思い浮かべざるを得ない程になった。
もちろん、事実として、この土地の被災が大きかった事が
何よりも大きく人々の心に残っているのは間違いないけど。
しかし、その一本松も塩害には勝てず
今は死に絶えた体が倒れるのを待っているに過ぎない。
ホント言うと私は、
一本松も、このまま安らかに眠らせてあげてもいいんじゃないか、と思ってる。
「おつかれさま」
と、言ってあげたいところ。。。
だって、今の一本松と、復元された一本松が
同じ一本松って思えないんだよね。。。
そして、その復元された一本松を見に、人はこの地を訪れるのだろうか。。。?
一度その一本松を見に来た人が、再び見に来ようと思うのだろうか。。。?
そんな風に思ってしまう。
それならば、今の松の一部分を無理矢理使って復元させるよりも
潔く、何分の一かの小さなモデルを作って、
励ましてくれた一本松への感謝と、
シンボルとしての一本松の存続としてもいいんじゃないかな、って。
募金で賄われる保存費用も、まだまだ集まっていないようだけど
作業自体は来月から行われる事も、先日の記事で紹介した。
作業が行われると言う事は、当然費用がかかってくる訳で
その費用は、当面、市の予算が立て替えると言う事だ。
7月の時点で350万円しか集まってないみたいだし
費用が集まるまで、一体どれくらいの時間がかかるのか。。。
もし集まらなかったらどのように補填されるのか。。。
その辺りも気になる所。
詳細ご存知の方、いらっしゃったら教えて下さい。
だからと言って、一方の「被災建物を残す」と一口に言っても
その建物が建っているのは、土地のかさ上げが予定されている場所だったりする訳で
色々な問題もあるのだとは思う。
それでも、もし本当にたいした議論もされずに
これから粛々と、ただただ解体されていくのだとしたら
それはそれで、後悔するんじゃないかな、とも。。。
知らなかったんだけど、中央公民館の壁に、津波で母親を亡くされた方が
天国の母親に向けてメッセージを書いているのが話題になったそうだ。
掲載記事
メッセージには「とりこわされても、絶対にこの場所の事忘れないからね!」とある。
この公民館も、当然取り壊しの対象なのだが、
嘆願書により、該当部分の壁の保存が決まったと言う。
署名した1723人が市在外者が中心だった事の意味を考えてしまう。
掲載記事
しかし一方で、メッセージを書いたご本人は
壁だけ残して津波の恐ろしさが伝わるのか?と疑問を呈している。
同じ思いを抱いている被災者の方も居る筈だよね。
それなのに、外部からの意見の方が目立つと言う事は
もしかしたら、内部ではそんな風に言いにくい空気でもあるのかな。。。
戸羽市長は「被災地を見に来て下さい」と言う。
けど、建物がなくなった陸前高田を、どれだけの人が見に来るだろう?
見に来たとして、どれだけの情報を、その人達に伝える事が出来るだろう?
8月の陸前高田の被災エリアは、全体が草花に覆われていて
それだけでも、何だか少し復興しているんじゃないか、と思わせる。
実際は、ただ色がついて鮮やかになっただけで、その下は瓦礫だったり
家の基礎だったりする、荒涼とした被災跡の風景である事に変わりはないのに。
やはり市在外者のある学者の方が仰ったそうだ。
「被災建物は、陸前高田の財産だ。」と。
そうだよね、って思える。
私なら、一本松のレプリカより、本物の被災した建物を見に行きたいと思う。
それは、一本松を見た時の感動よりも
被災地域の荒涼とした風景を見た時に、
矢の雨の様に情報が体に刺さって来た、あの痛みの方が貴重だと思えるから。
これもまた、部外者だから言えるのかな。
地元の人が望む陸前高田の形を守るのは大切な事。
けどそこに、愛のある外部の人の意見が入るのは
決して悪いことじゃないよね。
。。。って、思いたい。
陸前高田を愛する外部の人として。。。
「被災した建物を本当に全部取り壊していいのか?」
陸前高田市長の戸羽さんは「見たくない」という遺族の方々の気持ちを鑑みて
全建物の解体を決定している。
戸羽さんも、奥様を津波で亡くされてる。
もしかしたら、戸羽さんご自身が「見たくない」という気持ちも強いのかもしれない。
前回の訪問時に知り合いになった仮設住宅にお住まいで娘さんを亡くされたTさんも
「見たくない」と目を潤ませた。
もちろん、そういう気持ちは尊重されるべきだよね。
私は、というと
被災建物を取り壊して、文字通り何も無くなった陸前高田の町を想像して
少し疑問を持ちながらも“仕方ないのかな。。。”と思っていた。
何となく、モヤモヤしてて、でも、その事はあまり深く考えない様にしていた。
自分では結論なんて出そうにないから。
「ろくな議論も行われずに解体が決まってしまったのが問題」とも言っていた。
確かに。。。ご遺族の方々の中にも
残して欲しい、と思っている方が皆無とは言い切れないよね。
対立する意見があるのは、ごく普通の事。
残すか残さないか、感情的な部分だけで考えたら
たぶん「残さない」という結論になって自然なんだと思う。
誤解を恐れずに言えば、
多くのご遺族の方達は“被災した建物を残す事の意味”を考えられる程
心に余裕のある状態になっていないんじゃないか、とも思う。
つまり
被災建物を残す事で、後生に津波の恐ろしさを視覚的に伝える意義
ある種の“観光”として、被災建物がこの地に人を呼び込む可能性。。。
それは、陸前高田の使命と復興を両立させるものかもしれない。
例えば、今、広島に原爆ドームがなければ
広島を訪れる事の意味は、どれだけ削られてしまうだろう。。。と考える。
先日の記事でも書いた通り、陸前高田の復興のシンボル
「奇跡の一本松」が1億5000万円を掛けて、
その姿をとどめようとしている。
確かに今の一本松は、
ある程度の人を陸前高田に呼び込んでいる。
けど、その人達が見に来ているのは、今の一本松。
津波に堪えて、踏ん張って残った、ど根性の松。
その松の実際は、陸前高田を全国に紹介するのに多いに役立ち
一本松を通してマスコミに取り上げてもらったり、商品の販売促進等に利用する事で
陸前高田に視線を集める大役をこなし、
そしてその成果は、被災地の名前を挙げようとした時、
多くの人が「陸前高田」を思い浮かべざるを得ない程になった。
もちろん、事実として、この土地の被災が大きかった事が
何よりも大きく人々の心に残っているのは間違いないけど。
しかし、その一本松も塩害には勝てず
今は死に絶えた体が倒れるのを待っているに過ぎない。
ホント言うと私は、
一本松も、このまま安らかに眠らせてあげてもいいんじゃないか、と思ってる。
「おつかれさま」
と、言ってあげたいところ。。。
だって、今の一本松と、復元された一本松が
同じ一本松って思えないんだよね。。。
そして、その復元された一本松を見に、人はこの地を訪れるのだろうか。。。?
一度その一本松を見に来た人が、再び見に来ようと思うのだろうか。。。?
そんな風に思ってしまう。
それならば、今の松の一部分を無理矢理使って復元させるよりも
潔く、何分の一かの小さなモデルを作って、
励ましてくれた一本松への感謝と、
シンボルとしての一本松の存続としてもいいんじゃないかな、って。
募金で賄われる保存費用も、まだまだ集まっていないようだけど
作業自体は来月から行われる事も、先日の記事で紹介した。
作業が行われると言う事は、当然費用がかかってくる訳で
その費用は、当面、市の予算が立て替えると言う事だ。
7月の時点で350万円しか集まってないみたいだし
費用が集まるまで、一体どれくらいの時間がかかるのか。。。
もし集まらなかったらどのように補填されるのか。。。
その辺りも気になる所。
詳細ご存知の方、いらっしゃったら教えて下さい。
だからと言って、一方の「被災建物を残す」と一口に言っても
その建物が建っているのは、土地のかさ上げが予定されている場所だったりする訳で
色々な問題もあるのだとは思う。
それでも、もし本当にたいした議論もされずに
これから粛々と、ただただ解体されていくのだとしたら
それはそれで、後悔するんじゃないかな、とも。。。
知らなかったんだけど、中央公民館の壁に、津波で母親を亡くされた方が
天国の母親に向けてメッセージを書いているのが話題になったそうだ。
掲載記事
メッセージには「とりこわされても、絶対にこの場所の事忘れないからね!」とある。
この公民館も、当然取り壊しの対象なのだが、
嘆願書により、該当部分の壁の保存が決まったと言う。
署名した1723人が市在外者が中心だった事の意味を考えてしまう。
掲載記事
しかし一方で、メッセージを書いたご本人は
壁だけ残して津波の恐ろしさが伝わるのか?と疑問を呈している。
同じ思いを抱いている被災者の方も居る筈だよね。
それなのに、外部からの意見の方が目立つと言う事は
もしかしたら、内部ではそんな風に言いにくい空気でもあるのかな。。。
戸羽市長は「被災地を見に来て下さい」と言う。
けど、建物がなくなった陸前高田を、どれだけの人が見に来るだろう?
見に来たとして、どれだけの情報を、その人達に伝える事が出来るだろう?
8月の陸前高田の被災エリアは、全体が草花に覆われていて
それだけでも、何だか少し復興しているんじゃないか、と思わせる。
実際は、ただ色がついて鮮やかになっただけで、その下は瓦礫だったり
家の基礎だったりする、荒涼とした被災跡の風景である事に変わりはないのに。
やはり市在外者のある学者の方が仰ったそうだ。
「被災建物は、陸前高田の財産だ。」と。
そうだよね、って思える。
私なら、一本松のレプリカより、本物の被災した建物を見に行きたいと思う。
それは、一本松を見た時の感動よりも
被災地域の荒涼とした風景を見た時に、
矢の雨の様に情報が体に刺さって来た、あの痛みの方が貴重だと思えるから。
これもまた、部外者だから言えるのかな。
地元の人が望む陸前高田の形を守るのは大切な事。
けどそこに、愛のある外部の人の意見が入るのは
決して悪いことじゃないよね。
。。。って、思いたい。
陸前高田を愛する外部の人として。。。
2012年09月01日
8月の高田(2)
「陸前高田」と聞いて「奇跡の一本松」の事を思い浮かべる人も多いだろう。
津波によって壊滅させられた高田松原で、ただ一本、絶え残った松の木。
しかし、たっぷり浴びた海水が土壌にしみ込み
すぐに存続が難しい状態になり、地元内外でさまざまな保存活動がなされていた。
せめて“子孫”を残そうと、その松ぼっくりから種を採り
発芽させる事にも成功している。
確かに、一本だけ残った松は“奇跡的”だし“感動的”。
けど、その状態を守るために投入される人材と資金は決して少なくなく
当初(高田を訪れる前)、私は一本松の扱いには懐疑的だった。
けど、実際に高田に行ってみると
一本松は様々な所でシンボルとして活躍し、この土地のPRに役立っていた。

高田の商品にこんなステッカー付けて販売してる。

ちなみにこれは、ポン酢醤油。美味しいよ♪ ^^
地元の方が、どれだけこの松を残す事に重要性を感じているのか
直接うかがう機会は未だにないのだが、
少なくとも、一本松は陸前高田の名前を全国に知らしめ
私達は一本松をみると陸前高田を思い浮かべる様になった。
一本松は、大切な存在で、守る価値があったんだ、と思った。
その一本松への道は

いつのまにか、こんな風に整備されていて、近くには駐車場もあった。

地震発生時の注意喚起の看板もあり
“また起きる事かもしれないんだよ”、“二度と起きない事じゃないよ”
「アナタの町でも起こるかもしれないんだよ。」
「だから気をつけてね」
と、言われている様な気がした。

夏休みのせいか、沢山の観光客が一本松を見に来ていた。

前に見に来たときは赤く変色していた松葉の部分が、

このお家、まだ誰か住んでるんかな??^^;
今は黒くなっている。

首元まで巻かれた包帯が、なんだか痛々しく感じたよ。。。

このままの自立は難しい一本松。
来月12日には幹が5本以上に切断され、中に防腐剤等を仕込まれる。
枝の保存は難しい為、全てがレプリカで再現されるという。
完成予定は来年の3月11日。
この場所に建て戻されるということだ。
ただ、その一本松が、この一本松と同じ一本松なのか。。。
私には良くわからない。
その為の費用1.5億円は、全て募金によりまかなわれると言う。
一本松周辺は

沈下したままの地盤の上に草が生い茂り、新しい景色を作っていた。

まるで湿地帯に茂る草原みたいな風景

植物は逞しいね。
一方、海側は。。。

初めて来た今年の冬から、何も変わってないみたい。

海に飲み込まれた堤防もそのまま。
時間が流れてるのか、流れてないのか、わからなくなるよ。
(つづく)
津波によって壊滅させられた高田松原で、ただ一本、絶え残った松の木。
しかし、たっぷり浴びた海水が土壌にしみ込み
すぐに存続が難しい状態になり、地元内外でさまざまな保存活動がなされていた。
せめて“子孫”を残そうと、その松ぼっくりから種を採り
発芽させる事にも成功している。
確かに、一本だけ残った松は“奇跡的”だし“感動的”。
けど、その状態を守るために投入される人材と資金は決して少なくなく
当初(高田を訪れる前)、私は一本松の扱いには懐疑的だった。
けど、実際に高田に行ってみると
一本松は様々な所でシンボルとして活躍し、この土地のPRに役立っていた。

高田の商品にこんなステッカー付けて販売してる。

ちなみにこれは、ポン酢醤油。美味しいよ♪ ^^
地元の方が、どれだけこの松を残す事に重要性を感じているのか
直接うかがう機会は未だにないのだが、
少なくとも、一本松は陸前高田の名前を全国に知らしめ
私達は一本松をみると陸前高田を思い浮かべる様になった。
一本松は、大切な存在で、守る価値があったんだ、と思った。
その一本松への道は

いつのまにか、こんな風に整備されていて、近くには駐車場もあった。

地震発生時の注意喚起の看板もあり
“また起きる事かもしれないんだよ”、“二度と起きない事じゃないよ”
「アナタの町でも起こるかもしれないんだよ。」
「だから気をつけてね」
と、言われている様な気がした。

夏休みのせいか、沢山の観光客が一本松を見に来ていた。

前に見に来たときは赤く変色していた松葉の部分が、

このお家、まだ誰か住んでるんかな??^^;
今は黒くなっている。

首元まで巻かれた包帯が、なんだか痛々しく感じたよ。。。

このままの自立は難しい一本松。
来月12日には幹が5本以上に切断され、中に防腐剤等を仕込まれる。
枝の保存は難しい為、全てがレプリカで再現されるという。
完成予定は来年の3月11日。
この場所に建て戻されるということだ。
ただ、その一本松が、この一本松と同じ一本松なのか。。。
私には良くわからない。
その為の費用1.5億円は、全て募金によりまかなわれると言う。
一本松周辺は

沈下したままの地盤の上に草が生い茂り、新しい景色を作っていた。

まるで湿地帯に茂る草原みたいな風景

植物は逞しいね。
一方、海側は。。。

初めて来た今年の冬から、何も変わってないみたい。

海に飲み込まれた堤防もそのまま。
時間が流れてるのか、流れてないのか、わからなくなるよ。
(つづく)
2012年06月11日
で。。。現状って?@陸前高田
陸前高田 市立第一中学校の校庭に
被災地で一番早く建てられた仮設住宅がある。

何の当てもなく訪れてみたのだが、
集会所では運良く何かのイベントが行われていて
今、まさに始まろうとしている所だった。
恐る恐る覗いてみると
「どうぞどうぞ、入って下さい!」
イベントのスタッフらしき男性が、いきおい良く声を掛けて招いて下さった。
「けど。。。私達、ここの人間じゃないんですけど。。。」
オズオズとためらうフリ(^^;)をしてみると
「いいんですよ!どうぞ、入って下さい!ビールもありますから!!」
被災地でのこういうイベントでは、よそ者でも快く受け入れてくれる。
1月に伺ったワークショップでもそうだった。
地元に住んでいない私のような人間が、地元の方の話を聞きたいと思ったら
こういう所に参加するのが一番いいのだ。

集まっていたのは30人弱。。。といったところだろうか。
訳も分からず入り込んで、ビールをつがれ
何だかタダ酒を飲みに来たみたいで、若干バツが悪い。。。(ーvー;)
どうやら、何度かここにも訪れているボランティア団体による
「今、被災地では何が必要なのかを教えて下さい」(+プチ・コンサート)
というイベントらしい。
これはまさに、今回の訪問で私が知りたかった事。
マスコミでは原発関連のニュースは頻繁に発信されるものの
それ以外の被災地の問題はあまり取り上げられないようになってるみたいだし
当然ながら、報道がないからと言って問題がない訳じゃないはず。
現地の方が、今、何を考えていて、どういう問題があるのか
是非、伺ってみたかった。
イベントは、小さなグループに分かれて、そこへボランティアの方が一人入り
困っている事、訴えたい事、必要な支援等、思いつく事を話しましょう
というスタイルで始まった。
私は偶然隣に座っていた、この仮設にお住まいのTさんと
ほぼサシでお話をする事になった。
。。。いや、お話を“聞く”事になった、だね。
Tさんはこの日、26歳のお嬢さん、Mちゃんと一緒に来ていた。
現在は、Mちゃんとご主人の3人暮らしだが
もう一人のお嬢さんと義理のお父様を亡くされ
ご両親は今も行方不明のままだという。
「一年前よりも今の方が辛い」
被災地はまだ癒えていない。。。
そんな言葉を使う事さえ、あまりにも早過ぎる現実。
一年前の一年前は、楽しい思い出ばかり。
今、一年前を思い出しても辛い事ばかり。
時々、声を詰まらせながらTさんは話してくれた。
震災当時は、ただがむしゃらに生きる事が精一杯で
今、仮設でも生活の基盤が出来て、
やっと現実に向き合う余裕が出来て来たという状態らしい。
家族が亡くなった事にさえ、向き合う事の出来なかったTさんの一年は
きっと多くの被災地の方が経験した一年でもあるのだろう。
今は話を聞いて欲しい。
同じ体験をした人と、話をして思いを共有する機会が欲しい、と言う。
親を亡くした子供達のケアをする様な場所はあっても
子を亡くした親達が集まってケアをする様な場所は、現在の高田にはない。
市の方へ、そういう場が欲しいと掛け合っても、
あまり真剣には考えてくれなかったようだ。
同じ体験をした人達が集まって、自分の経験や思いを吐露する事は
グループセラピーとして、その効果は良く知られている。
Tさんの様に、必要だ、と声をあげられる人だけにではなく
声をあげられずに居る人達の中にも、このような機会を必要としている人は沢山いる筈。

近くには一応一通りの医療施設も建っていて、心療内科もある。
また、今ここに集まって来ている人達は、元気な方の人達だとも言う。
このような場に集まって話をする事が出来る余裕のある人。
多くの人は、まだ引きこもったり、
イベントに参加出来る心の状態じゃなかったりする、と。
実際、Tさん自身も、このような集まりに参加したのはこの日が初めて。
4月に行われた、住民主催のお花見会にも出席する気になれなかったのだとか。
肩を寄せ合う様に並んだ仮設住宅の中でもコミュニティーの形成は難しく
未だに誰がどこに住んでいるのか知らない、
どんな人が住んでいるのか分からないという状況。
こんな事も、引きこもってしまう事の一因なんだろうね。
昔からあったコミュニティーがバラバラになって、仮設住宅に入り
そこで新しい人間関係を築いて行くのが大変なのは
隣人が誰か分からない都会の生活と同じ仕組みなんだろうと思う。
外を歩けば誰かしらと顔を合わせる事はあれど
仮設の住人は、当然ながら、働いている人もいれば、学校に通う人もいる。
ライフスタイルによって、顔を合わせる人はいつもだいたい決まって来る。
それ以外の人は、住んでいるのかどうかも分からない人達だ。

奇しくも、3月にアメリカで写真展をやった時のテーマである
「心のケア」や「新しいコミュニティー構築」が
如何に大切かと言う事を裏付ける様な話が聞けた。
帰り際に
「高田に来た時には、また是非寄って下さい。○○号室にいますから。」
と、おっしゃって頂いた。
その言葉を都合良く鵜呑みにした私は
高田を離れる前日、Tさんに会いに再び仮設を訪ねた。
「明日、高田を離れるんで、ご挨拶に。。。」
と言う口実で。。。
ホント言うと、ただただ、もう一度会って話してみたかったんだ。
Tさんにも、Mちゃんにも。
ドキドキしながら訪ねて行くと、お二人共とても暖かく迎えてくれた。
しかも、「上がって行って下さい。」という言葉にも甘え
上がり込んで、こんな物までご馳走になってしまった。。。

美味しいコーヒーと、
知る人ぞ知るという岩手県山田町(高田から結構遠い!)の名菓
「山田ロール」
という、貴重なケーキまで出して頂いた。
これがまた、ゴマが香ばしい甘さ控えめフワフワロールケーキ。
Mちゃん、ありがとう!(TvT)
初めて入った仮設住宅の中は、思ったよりも台所も広くて快適そうに見える。
目下の不便は、増えてしまう荷物を収納する場所がない事だそうで
Tさん宅は、DIYで棚を作ったりしていた。
入居する時は、おそらくほとんどの人がほとんど何もない状態で入ったのだろうし
1年以上経てば、生活して行く上で必要な物が増えて行くのは
どこの家庭も同じだろうね。
確か、倉庫を一世帯に一つずつ与えられるという話を伺った気がするが
それが出来れば少しはその問題も解決するだろう。
当初、温暖地の神戸と同じ仕様で作られたこの住宅は
後に外壁や窓を外側から防寒機能の補強したのだそう。
今は多くのお宅の軒先で“グリーンのカーテン”が育てられ、夏の準備がされていた。
まぁ、どんなに快適そうに見えても
ここは間違いなく中学校の校庭な訳で
※延期されたとは言え期限付きの住処。
※当初は2年の期限だったものが1年延期された。
先の見えない生活に、不安を持っていない人は居ないよね。
やはり町の復興が、目に見える形で進む事が重要だと感じる。

色んな事を抱えながらもTさんは言う。
「私にも何か出来るんじゃないかと思って。。。」
一年前よりも、今の方が辛いと言いながらも
困っている人の力になりたい。何が出来るかわからないけど。。。と。
きっと、彼女のしようとしている事、したいと思っている事は
彼女が誰かにして欲しい事でもあるんだろう。
その役割を、外部の人間ももっと出来たらいいと思う。
現状は、被災地の生の声を被災地以外で聞くのは
いや、被災地であっても、とても困難な状態だと思う。
マスメディアが原発の方へ報道が偏って(もちろん大切な事!)しまっていて
それ以外の被災地のきめ細やかな取材をしてもらっていなのも原因だと思う。
きっと取材の仕方だって難しい筈だ。
だって、いきなり訪ねて行って「何が辛いですか?何が必要ですか?」
なんて聞いても、核心に迫れる訳ない。
そうでなくても取材に傷ついている被災者の方も多いと聞くのに
土足で家に上がり込む様な取材に、心を開いて話してくれるはずがない。
ましてや、イベントにも参加出来ず、部屋に閉じこもったまま
誰にも話す事も出来ずに抱えている人達の言葉を引き出す事なんて出来ない。
心のこもった取材を、発信力のある誰かがしてくれれば良いと思うけど。。。
それが叶っていない現状では、
やっぱり被災地の方に声をあげてもらうしかないのかな。。。
自分の痛みを話す事は、追体験をする事でもある。
それを強いるのはとても酷な事だとは思うけど、
たぶん私達は、
被災地で、今何が必要とされているのか
被災地で暮らす方が、今どんな思いで生活しているのか
何も理解出来ていない。
とても大変な事だとは思うけど、その事を発信出来るのは、当事者の方達だけだ。
また、そこで発せられた声を
効率よく拡散させる術を、考える必要があると思う。
SNS使って、私にも何か出来ないかなぁ〜って思ってるんだ。。。
何か良いアイデアがあったら教えて!(>人<)
件のイベントで、数人の方が言っていた事がある。
私達は誰もが、被災者になる可能性がある。
今回は、たまたま東北だっただけ。
不可能でも、可能な限り、自分に引き寄せて考えたいよ。
例え今の自分に何も出来なくても
気にする事、忘れない事が
被災地を勇気づける事にもなると言う事を
沢山の人に知ってもらいたい。
「忘れないよ!」を届けたい。
一人でも多くの人に。
15回目の11日によせて。
被災地で一番早く建てられた仮設住宅がある。

何の当てもなく訪れてみたのだが、
集会所では運良く何かのイベントが行われていて
今、まさに始まろうとしている所だった。
恐る恐る覗いてみると
「どうぞどうぞ、入って下さい!」
イベントのスタッフらしき男性が、いきおい良く声を掛けて招いて下さった。
「けど。。。私達、ここの人間じゃないんですけど。。。」
オズオズとためらうフリ(^^;)をしてみると
「いいんですよ!どうぞ、入って下さい!ビールもありますから!!」
被災地でのこういうイベントでは、よそ者でも快く受け入れてくれる。
1月に伺ったワークショップでもそうだった。
地元に住んでいない私のような人間が、地元の方の話を聞きたいと思ったら
こういう所に参加するのが一番いいのだ。

集まっていたのは30人弱。。。といったところだろうか。
訳も分からず入り込んで、ビールをつがれ
何だかタダ酒を飲みに来たみたいで、若干バツが悪い。。。(ーvー;)
どうやら、何度かここにも訪れているボランティア団体による
「今、被災地では何が必要なのかを教えて下さい」(+プチ・コンサート)
というイベントらしい。
これはまさに、今回の訪問で私が知りたかった事。
マスコミでは原発関連のニュースは頻繁に発信されるものの
それ以外の被災地の問題はあまり取り上げられないようになってるみたいだし
当然ながら、報道がないからと言って問題がない訳じゃないはず。
現地の方が、今、何を考えていて、どういう問題があるのか
是非、伺ってみたかった。
イベントは、小さなグループに分かれて、そこへボランティアの方が一人入り
困っている事、訴えたい事、必要な支援等、思いつく事を話しましょう
というスタイルで始まった。
私は偶然隣に座っていた、この仮設にお住まいのTさんと
ほぼサシでお話をする事になった。
。。。いや、お話を“聞く”事になった、だね。
Tさんはこの日、26歳のお嬢さん、Mちゃんと一緒に来ていた。
現在は、Mちゃんとご主人の3人暮らしだが
もう一人のお嬢さんと義理のお父様を亡くされ
ご両親は今も行方不明のままだという。
「一年前よりも今の方が辛い」
被災地はまだ癒えていない。。。
そんな言葉を使う事さえ、あまりにも早過ぎる現実。
一年前の一年前は、楽しい思い出ばかり。
今、一年前を思い出しても辛い事ばかり。
時々、声を詰まらせながらTさんは話してくれた。
震災当時は、ただがむしゃらに生きる事が精一杯で
今、仮設でも生活の基盤が出来て、
やっと現実に向き合う余裕が出来て来たという状態らしい。
家族が亡くなった事にさえ、向き合う事の出来なかったTさんの一年は
きっと多くの被災地の方が経験した一年でもあるのだろう。
今は話を聞いて欲しい。
同じ体験をした人と、話をして思いを共有する機会が欲しい、と言う。
親を亡くした子供達のケアをする様な場所はあっても
子を亡くした親達が集まってケアをする様な場所は、現在の高田にはない。
市の方へ、そういう場が欲しいと掛け合っても、
あまり真剣には考えてくれなかったようだ。
同じ体験をした人達が集まって、自分の経験や思いを吐露する事は
グループセラピーとして、その効果は良く知られている。
Tさんの様に、必要だ、と声をあげられる人だけにではなく
声をあげられずに居る人達の中にも、このような機会を必要としている人は沢山いる筈。

近くには一応一通りの医療施設も建っていて、心療内科もある。
また、今ここに集まって来ている人達は、元気な方の人達だとも言う。
このような場に集まって話をする事が出来る余裕のある人。
多くの人は、まだ引きこもったり、
イベントに参加出来る心の状態じゃなかったりする、と。
実際、Tさん自身も、このような集まりに参加したのはこの日が初めて。
4月に行われた、住民主催のお花見会にも出席する気になれなかったのだとか。
肩を寄せ合う様に並んだ仮設住宅の中でもコミュニティーの形成は難しく
未だに誰がどこに住んでいるのか知らない、
どんな人が住んでいるのか分からないという状況。
こんな事も、引きこもってしまう事の一因なんだろうね。
昔からあったコミュニティーがバラバラになって、仮設住宅に入り
そこで新しい人間関係を築いて行くのが大変なのは
隣人が誰か分からない都会の生活と同じ仕組みなんだろうと思う。
外を歩けば誰かしらと顔を合わせる事はあれど
仮設の住人は、当然ながら、働いている人もいれば、学校に通う人もいる。
ライフスタイルによって、顔を合わせる人はいつもだいたい決まって来る。
それ以外の人は、住んでいるのかどうかも分からない人達だ。

奇しくも、3月にアメリカで写真展をやった時のテーマである
「心のケア」や「新しいコミュニティー構築」が
如何に大切かと言う事を裏付ける様な話が聞けた。
帰り際に
「高田に来た時には、また是非寄って下さい。○○号室にいますから。」
と、おっしゃって頂いた。
その言葉を都合良く鵜呑みにした私は
高田を離れる前日、Tさんに会いに再び仮設を訪ねた。
「明日、高田を離れるんで、ご挨拶に。。。」
と言う口実で。。。
ホント言うと、ただただ、もう一度会って話してみたかったんだ。
Tさんにも、Mちゃんにも。
ドキドキしながら訪ねて行くと、お二人共とても暖かく迎えてくれた。
しかも、「上がって行って下さい。」という言葉にも甘え
上がり込んで、こんな物までご馳走になってしまった。。。

美味しいコーヒーと、
知る人ぞ知るという岩手県山田町(高田から結構遠い!)の名菓
「山田ロール」
という、貴重なケーキまで出して頂いた。
これがまた、ゴマが香ばしい甘さ控えめフワフワロールケーキ。
Mちゃん、ありがとう!(TvT)
初めて入った仮設住宅の中は、思ったよりも台所も広くて快適そうに見える。
目下の不便は、増えてしまう荷物を収納する場所がない事だそうで
Tさん宅は、DIYで棚を作ったりしていた。
入居する時は、おそらくほとんどの人がほとんど何もない状態で入ったのだろうし
1年以上経てば、生活して行く上で必要な物が増えて行くのは
どこの家庭も同じだろうね。
確か、倉庫を一世帯に一つずつ与えられるという話を伺った気がするが
それが出来れば少しはその問題も解決するだろう。
当初、温暖地の神戸と同じ仕様で作られたこの住宅は
後に外壁や窓を外側から防寒機能の補強したのだそう。
今は多くのお宅の軒先で“グリーンのカーテン”が育てられ、夏の準備がされていた。
まぁ、どんなに快適そうに見えても
ここは間違いなく中学校の校庭な訳で
※延期されたとは言え期限付きの住処。
※当初は2年の期限だったものが1年延期された。
先の見えない生活に、不安を持っていない人は居ないよね。
やはり町の復興が、目に見える形で進む事が重要だと感じる。

色んな事を抱えながらもTさんは言う。
「私にも何か出来るんじゃないかと思って。。。」
一年前よりも、今の方が辛いと言いながらも
困っている人の力になりたい。何が出来るかわからないけど。。。と。
きっと、彼女のしようとしている事、したいと思っている事は
彼女が誰かにして欲しい事でもあるんだろう。
その役割を、外部の人間ももっと出来たらいいと思う。
現状は、被災地の生の声を被災地以外で聞くのは
いや、被災地であっても、とても困難な状態だと思う。
マスメディアが原発の方へ報道が偏って(もちろん大切な事!)しまっていて
それ以外の被災地のきめ細やかな取材をしてもらっていなのも原因だと思う。
きっと取材の仕方だって難しい筈だ。
だって、いきなり訪ねて行って「何が辛いですか?何が必要ですか?」
なんて聞いても、核心に迫れる訳ない。
そうでなくても取材に傷ついている被災者の方も多いと聞くのに
土足で家に上がり込む様な取材に、心を開いて話してくれるはずがない。
ましてや、イベントにも参加出来ず、部屋に閉じこもったまま
誰にも話す事も出来ずに抱えている人達の言葉を引き出す事なんて出来ない。
心のこもった取材を、発信力のある誰かがしてくれれば良いと思うけど。。。
それが叶っていない現状では、
やっぱり被災地の方に声をあげてもらうしかないのかな。。。
自分の痛みを話す事は、追体験をする事でもある。
それを強いるのはとても酷な事だとは思うけど、
たぶん私達は、
被災地で、今何が必要とされているのか
被災地で暮らす方が、今どんな思いで生活しているのか
何も理解出来ていない。
とても大変な事だとは思うけど、その事を発信出来るのは、当事者の方達だけだ。
また、そこで発せられた声を
効率よく拡散させる術を、考える必要があると思う。
SNS使って、私にも何か出来ないかなぁ〜って思ってるんだ。。。
何か良いアイデアがあったら教えて!(>人<)
件のイベントで、数人の方が言っていた事がある。
「もうオレ達のこと、忘れちまってんじゃねーかってよ。。。」
私達は誰もが、被災者になる可能性がある。
今回は、たまたま東北だっただけ。
不可能でも、可能な限り、自分に引き寄せて考えたいよ。
例え今の自分に何も出来なくても
気にする事、忘れない事が
被災地を勇気づける事にもなると言う事を
沢山の人に知ってもらいたい。
「忘れないよ!」を届けたい。
一人でも多くの人に。
15回目の11日によせて。
2012年02月12日
とりあえず、話すよ。
11ヶ月目。
冷温停止状態の筈のフクイチ2号機は
注水量を増やしたにも関わらず、再び70℃越えに温度上昇。
こんな状態になって、
何故温度が上昇したのかさえも分からないのに、
つい先日
「ストレステストは妥当」と
慎重派の懸念意見を完全無視した“ストレステスト聴取会”。
被災地には瓦礫の山が残り
深刻な人口流出が起きてる。
震災から11ヶ月という月日に見合う程、復興が進んでいるんだろうか。
そんな風に思わざるを得ない事ばかりが目につく。。。
昨日、友達の家に数人で集まって
陸前高田で頂いた、羊羹をみんなで食べた。

一つは塩羊羹、一つはリンゴ羊羹。

実はワタシ、和菓子が苦手です。^^;
特に羊羹の様な、小豆を使った物がニガテ。。。
でも、この羊羹は掛け値なしに美味しかった。
一見、小豆が苦手な私には、リンゴの方が食べ易いでしょ。。。と思ったんだけど
実際食べてみると、どっちも本当に美味しくて
意外な事に、私はどちらかと言えば「塩羊羹」の方が美味しかった。

お土産に、超〜オススメです♪
さて、そんな美味しい羊羹&諸々を頂きながら、被災地の話。
先月陸前高田で撮って来た写真をみんなで見ながら
それぞれに思う事、311直後の話、復興の事とか。。。
言葉は決して多くなかったけど、色んな事を静かに話した。
私も、ブログでは書ききれない被災地の人達の様子や
現地に行く前に考えていた合理性や正当性だけでは判断出来ない
複雑で、外からだけ見たのでは理解し難い事も多いと気づかされた事等
思いつくままに話をした。
震災以降、小さな規模で集まっては
原発の事、被災地の事、色々と話して意見交換をしてるんだけど
やっぱりこういうの、必要だな、って思った。
温度差は、ある、と思う。
人によって、地域によって、環境によって。。。
でもきっと、話をすれば、その人なりに思ってる事があるんだよね。
それでも、話をする機会もなければ
いつか本当に忘れてしまうかもしれない。
復興を遂げる前に。
何かをしたい、と思ってる人は多い筈。
でも、意外と出来る事って少ない。
自分に出来る事はなんだろう。。。
そう考えて、もし、何も思い浮かばなかったら
話をするってのも、一つだなって思う。
自分の中で考えてるだけじゃなく、他人を巻き込んで
自分の話す声に耳を傾け、人の関心がどこにあるのかを知る。。。
そんな作業が、いつか何か行動に移す為の土台になりそうな気がする。
先はまだ長いし、今すぐに出来なくても、いつか出番はありそう。
でも、忘れてしまったら、そこで終わりだもんね。
そしてもし、本当に状況が許すなら
沢山の人に、被災地を見て欲しい、とも思ったよ。
ただそこに行くだけで、誰にも説明を受けなくても
受け取る情報の多さは、行ってみて実感すると思う。
例えば、ニュース映像で見る瓦礫の山に立てば
自分が人々の生活と歴史の上に立っている事を実感する。
“ただの瓦礫”が、違う物に見えてくるんだよね。
何かをしたい、と思う気持ちから
何かせずにはいられない、という気持ちに変わり
忘れずにいよう、は
忘れられない風景に変わると思う。

地元のちびっ子達で行われた獅子舞。みんな上手だったし、楽しそうだった。
意外かもしれないけど、
被災地の人達も「見て欲しい」と言う。
話しかければ、
仮設店舗で魚屋を営むご夫婦も
ラーメン屋のおばちゃんも、
喜んで話を聞かせてくれる。

仮設店舗ラーメン屋のおばちゃん。超〜〜明るい♪
まぁ、被災地に行ったからと言って
気持ちが奮い立ったからと言って
決してエラい訳でも
すぐに何か行動出来る訳でもないんだけどね。。。私も含め。。。
だから、とりあえず話す。
そんな小さな事を、とりあえず、していこうかなと思ってる。

来月で1年。
在モスで私とオフ会ご希望の方、連絡熱烈お待ちしてますwww
冷温停止状態の筈のフクイチ2号機は
注水量を増やしたにも関わらず、再び70℃越えに温度上昇。
こんな状態になって、
何故温度が上昇したのかさえも分からないのに、
つい先日
「ストレステストは妥当」と
慎重派の懸念意見を完全無視した“ストレステスト聴取会”。
被災地には瓦礫の山が残り
深刻な人口流出が起きてる。
震災から11ヶ月という月日に見合う程、復興が進んでいるんだろうか。
そんな風に思わざるを得ない事ばかりが目につく。。。
昨日、友達の家に数人で集まって
陸前高田で頂いた、羊羹をみんなで食べた。

一つは塩羊羹、一つはリンゴ羊羹。

実はワタシ、和菓子が苦手です。^^;
特に羊羹の様な、小豆を使った物がニガテ。。。
でも、この羊羹は掛け値なしに美味しかった。
一見、小豆が苦手な私には、リンゴの方が食べ易いでしょ。。。と思ったんだけど
実際食べてみると、どっちも本当に美味しくて
意外な事に、私はどちらかと言えば「塩羊羹」の方が美味しかった。

お土産に、超〜オススメです♪
さて、そんな美味しい羊羹&諸々を頂きながら、被災地の話。
先月陸前高田で撮って来た写真をみんなで見ながら
それぞれに思う事、311直後の話、復興の事とか。。。
言葉は決して多くなかったけど、色んな事を静かに話した。
私も、ブログでは書ききれない被災地の人達の様子や
現地に行く前に考えていた合理性や正当性だけでは判断出来ない
複雑で、外からだけ見たのでは理解し難い事も多いと気づかされた事等
思いつくままに話をした。
震災以降、小さな規模で集まっては
原発の事、被災地の事、色々と話して意見交換をしてるんだけど
やっぱりこういうの、必要だな、って思った。
温度差は、ある、と思う。
人によって、地域によって、環境によって。。。
でもきっと、話をすれば、その人なりに思ってる事があるんだよね。
それでも、話をする機会もなければ
いつか本当に忘れてしまうかもしれない。
復興を遂げる前に。
何かをしたい、と思ってる人は多い筈。
でも、意外と出来る事って少ない。
自分に出来る事はなんだろう。。。
そう考えて、もし、何も思い浮かばなかったら
話をするってのも、一つだなって思う。
自分の中で考えてるだけじゃなく、他人を巻き込んで
自分の話す声に耳を傾け、人の関心がどこにあるのかを知る。。。
そんな作業が、いつか何か行動に移す為の土台になりそうな気がする。
先はまだ長いし、今すぐに出来なくても、いつか出番はありそう。
でも、忘れてしまったら、そこで終わりだもんね。
そしてもし、本当に状況が許すなら
沢山の人に、被災地を見て欲しい、とも思ったよ。
ただそこに行くだけで、誰にも説明を受けなくても
受け取る情報の多さは、行ってみて実感すると思う。
例えば、ニュース映像で見る瓦礫の山に立てば
自分が人々の生活と歴史の上に立っている事を実感する。
“ただの瓦礫”が、違う物に見えてくるんだよね。
何かをしたい、と思う気持ちから
何かせずにはいられない、という気持ちに変わり
忘れずにいよう、は
忘れられない風景に変わると思う。

地元のちびっ子達で行われた獅子舞。みんな上手だったし、楽しそうだった。
意外かもしれないけど、
被災地の人達も「見て欲しい」と言う。
話しかければ、
仮設店舗で魚屋を営むご夫婦も
ラーメン屋のおばちゃんも、
喜んで話を聞かせてくれる。

仮設店舗ラーメン屋のおばちゃん。超〜〜明るい♪
まぁ、被災地に行ったからと言って
気持ちが奮い立ったからと言って
決してエラい訳でも
すぐに何か行動出来る訳でもないんだけどね。。。私も含め。。。
だから、とりあえず話す。
そんな小さな事を、とりあえず、していこうかなと思ってる。

来月で1年。
在モスで私とオフ会ご希望の方、連絡熱烈お待ちしてますwww










